■ 八木重吉の詩 |
2015.11.12
八木重吉(やぎじゅうきち)の名や作品と初めて出会ったのは、伊藤整の自伝的小説「若い詩人の肖像」を読んだときであった。そこには、「故郷」という短い詩が紹介されていた。
故 郷
心の暗い日に
ふるさとは祭りのようにあかるんでおもわれる
わずかこれだけである。文字数を数えたら26文字しかない。だが私には、言葉の一つひとつが心にしみるように感じられた。そしてなぜか、子供のころに経験した、夏の夜の盆踊りの情景が思い浮かんできた。
ほかの詩人であれば、このフレーズのあとにさまざまな詩文を書き加えるのだろうが、八木重吉はそれ以上書こうとはしない。言葉やイメージは、いくらでも湧いてくるが、あえて止めることで余韻を持たせようとしたのかもしれない。
トップページの「ほそい がらす」を読んでも「ぴいんとわれた」がらすのかすかな音だけが聞こえてきて、あとは静寂につつまれるように感じられる。
八木重吉という人は、明治31年(1898)に生まれて昭和2年(1927)に29歳で亡くなっている。これらの詩も100年ほど前に書かれたのだが、古さは感じられない。
敬虔(けいけん)なクリスチャンで、学校の英語教師として短い一生を終わった人で、詩人にありがちな放蕩や借金、過度の飲酒などとは無縁の人だったようだ。
最後にもうひとつ紹介しておく。
夜の薔薇(そうび) ああ
はるか
よるの
薔薇
八木重吉 |
■ 福山は今日も暑かった |
2015.08.03
梅雨が明けたと思ったら、連日暑い日が続いている。最近の暑さは殺人的といっても過言ではないだろう。昼間の不要な外出はなるべく避け、どこか涼しいところでじっーとしているのが一番である。
夕方に犬の散歩をかねて近くの公園に行くと、セミがうるさいくらいに鳴いている。そのセミも昔はあまり見られなかったクマゼミが多い。もともと南方系のセミらしいが、ここ福山でも普通に見られるセミになってしまった。これも最近の温暖化の影響ではないかと思っている。
さて、トップページのポエムを久しぶりに更新した。中原中也の「桑名の駅」である。これは、第一連で、第三連まであるので、すべてを紹介しよう。
「桑名の駅」
桑名の駅は暗かった
蛙がコロコロ鳴いていた
夜更けの駅には駅長が
綺麗な砂利を敷き詰めた
プラットホームにただ独り
ランプを持って立っていた
桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロ泣いていた
焼蛤貝(やきはまぐり)の桑名とは
ここのことかと思ったから
駅長さんに訊ねたら
そうだと言って笑ってた
桑名の夜は暗かった
蛙がコロコロ鳴いていた
大雨の、霽(あが)ったばかりのその夜は
風もなければ暗かった
桑名駅のホームにある詩碑
中也(ちゅうや)の詩は、学生時代に出会い、その中のいくつかの作品は暗唱できるほどであった。彼の詩には独特のリズムや調子があって、覚えやすく、そらんじるには都合よくできていた。
たとえば、「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました/幾時代かがありまして/冬は疾風吹きました・・・」(サーカス)や
「ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ/ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出れくるわ出てくるわ・・・」(正午)のように、いまでもその一節がすぐに口をついて出てくる作品もかなりある。
この「桑名の駅」もそんな作品のひとつである。これは中也の実際の経験に基づいてつくられたということだ。旅行途中で台風に遭い、三重県の桑名駅で立往生したのである。
当時(1935年)の桑名の駅の周りには田んぼが多かったのであろう。私は行ったことはないが、現在は開発され、大きく変わっていることであろう。ちなみに田んぼの中で鳴いているカエルにはアマガエルが多いそうだ。
インターネットで調べていて知ったのだが、桑名の駅のホームにはこの詩の詩碑があるそうだ。三重県の観光案内サイトからその詩碑の写真をお借りして掲載しておく。
ところで、今回この詩を書き写していて、カエルの「鳴く」と「泣く」を使い分けていることに初めて気がついた。最初は誤植かと思って、手持ちの詩集やネットで調べてみたが、すべて第一連と第三連は「鳴く」で第二連のみ「泣く」になっている。おそらく、中也は意図的に書き分けたのだろう。台風で立ち往生した自分の気持ちを第二連の「泣く」に託して表現したのかもしれない。
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■ 久しぶりの姫路城 |
2015.06..02
プライベートの大切な用事があって、姫路まで行ってきた。高速道路を利用すれば、福山から1時間半ほどの距離で、ドライブにはちょうど良い。
用事を済ませて、時計を見るとまだ午後2時ごろ。天気もいいし、最近改修が終わった姫路城を見に行こうと、地元の人に話すと、「今は観光客がいっぱいで並ばないと入れない・・・」という。たとえお城に入れなくても、車窓から眺めることはできるだろうと行ってみると、平日でもお城の前は、車や人でかなり混雑している。晴天のもと、お城は息をのむほど白くきれいに見えた。まるで屋根に雪が積もっているようである。
私が姫路城を最後に見たのはもう15年も前のことである。当時もそれなりに美しかったが、まるで比べ物にならない。外見が白いということは、こんなにも美しく見えるものかと思った。
テレビのコマーシャルにも美白効果を強調した商品がやたら目につく。「色の白いは七難隠す」とことわざにもあるが、女性が白い肌にあこがれるのも無理はない。しかし、白ければそれで充分かというと、いささか疑問が残る。姫路城はもともと城としてのカタチも整った名城なのだ。つまり、スッピンでも美しい城が、おしろいをしてさらにきれいになったといえるだろう。
白ければ、それだけで女性がきれいになれるようなコマーシャルも少し距離をおいて見たほうがいいのかもしれない。
姫路城
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■ 吠えない番犬 |
2015.05.20
今日は我が家の飼い犬「サラ」を紹介したい。柴系の雑種(今はミックスというらしい)のメスで、14歳のおばあさん犬である。地元のリビング新聞に「子犬あげます」と出ていたのをいただいたもので、生後50日くらいのときにうちへきた。
ところが、2年間ほど飼ったところで、事情があって飼い続けられなくなり、妻の実家に預かっていただくことにした。里子に出したようなもので、そこでは知らない人が来たりすると吠えるので、番犬として役立っていた。そこで10年ほどお世話になって帰ってきたのだが、我が家へ帰ってくると、急に吠えなくなった。不審者が近寄っても、じっと見ているだけで何もしない。無駄に吠えて近所迷惑になるよりましだと思ってあきらめているが、番犬にならないので困る。
犬にしてみれば、これまでさんざん働いてきたので、もう番犬はリタイアしました、といったところだろうか。
※上の写真が最近のもの、下は8年前に写したもの。
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■ ホームページリニューアル |
2015.04.15
8年前に公開した伝心社のホームページをリニューアルした。今年1月末に事務所兼住居を移転し、それにともないホームページも変えたいと思っていたのが、ようやく実現した。トップページに萩原朔太郎の「竹」を引用したのは深い意味はないのだが、若いときから好きな詩のひとつである。少し文学的な雰囲気のホームページにしたいというささやかな希望は持っている。
朔太郎の詩では、ほかにも好きなものがいくつかある。
その中で「閑雅な食慾」というのを紹介しておく。
閑雅な食慾
松林の中を歩いて
あかるい気分の珈琲店(かふえ)をみた
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である
をとめは恋恋の羞(はじらひ)をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほふくを取つて
おむれつ ふらいの類を喰べた
空には白い雲が浮んで
たいそう閑雅な食慾である
旧かな遣いで読みにくいところもあるが、「ふほふく」を「フォーク」に書き換えてはこの詩の持ち味が半減する。
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